本の世界に没頭する
こういう状況下だからか、読書に逃げている。
いや”逃げている”という表現は適切ではないか。
自分からかなり積極的に本に近づいて、積極的に没頭しているのだ。
飲食も忘れて、できたら家事も放棄して没頭したい世界が手元にあるというのは幸せだ。
自分の飲食はともかく、家事育児を放棄するのは不可能だけれども。
昔から本は好きだった。
中学生時代は本気で作家になりたかった。
自分が、誰かを没頭させる世界を創るのが、現実に疲れたときの逃げ場を創りたいと思った。
私にとって本は救いだったから。
以前はジャンルに関わらず読んでいたけど、最近は自分の好みもよくわかるようになり、「あー失敗だったわー」という結果にならない本をうまく選べるようになってきた。
歳月が自分への理解といい諦めを教えてくれる。
今でも、新しい挑戦のために、知識を得るために実用書は読むが、そのときは何か一緒に小説も並行して読む。
実用書だけだと脳と心が疲れてしまうのだ。
詰め込む活字もいいが、癒やしの活字も同時に用意する。
小説こそジャンル問わず読んでいたが、特に子どもが生まれてからは、実生活に悪影響を及ぼしそうな世界が広がっていそうなものは全力で避けている。
”いじめ””戦争もの””ドロドロした人間関係”。
私はHSP(ハイリーセンシティブパーソン、共感力が高い)の特徴を持っているので、その世界に引きずりこまれやすいところがある。
自衛の意識が低かった十代は、興味でいろんな作品を読み、今思うと自分の生活を侵害されていた。
とはいえ、今よりずっと多感だった年代に様々な作品に触れたことはどう考えてもプラスだった。
今ではどうしても避けてしまうから。
ここ数ヶ月で高校生、大学生の陸上を題材にした小説を2冊読んだ。
高校生、大学生が主人公だと、青春小説にも括られる。
30過ぎてからは積極的に読まなかったジャンルだが、本屋大賞受賞作だったり、直木賞受賞作だったり、またレビューもかなり良かったので読んでみることにした2冊だ。
遠い昔の話なのに、特に高校時代・大学時代の感覚は今でもよく覚えていて、今も違和感なく登場人物の気持ちになれる。
もちろん「青いな~」なんて思いながら、でも十分にその気持ちを理解できるのだ。
『一瞬の風になれ』佐藤多佳子
『風が強く吹いている』三浦しをん
どちらも読み終えたくない、いつまでも読んでいたいと思える作品でした。
私自身は陸上が死ぬほど苦手で、走ることになんの魅力も見いだせなかった。
走るために生まれた主人公たちの走ることへの喜びや、好きだからこその苦しみ、それを文章を通じて感じたこと。
本を読んで、没頭して、これはこの上ない幸せだ。
復調の兆し
先日ガッツリ調子の悪い文章を書いたのですが、ここ数日は落ち着いてきている。
スコールの多い天気のせいか、体が重い感覚はありますが、精神的に落ちてる感覚はそれほどない。
あのどうも動けない息苦しさと、頭もやもやの飽和状態からいくつか気をつけて生活していることがあるので、それを今日は記しておこうと思う。
コロナ禍、またはどうも精神的に落ちているときのライフハックである。
1.SNSを見る回数を減らす。
よく言われているとは思うが、コレがかなり効く。
特にフェイスブックの感染者の数やエリアのリポート記事には要注意。
政府や自治体からの書類は現地の言語でしか記載されていないので、英語に訳して拡散してくれるのは大変ありがたいし、助かるのだが、このコロナ禍、見ていると不安ばかり煽られてしまうのだ。
かといって、状況の把握、特に規制状況の把握は不可欠なので一日一回のチェックは必須だが、それ以上見るのは精神衛生上良くない。
精神的に弱っているときは他者の意見にも影響を受けやすいので、ツイッターで誰かが「これはもう日本に帰らないとヤバい」みたいなつぶやきをしていると、途端に焦燥感と不安感に押しつぶされそうになる。
ツイッターは個人の意見がほとんどなので、信憑性と過激さの面でも注意が必要。
2.できるだけ自分のテリトリーで生活する。
あまり外界と接しない。
1.とも似ているが、物理的な世界でもある程度自分の空間を確保し、必要以上に人と交わらないこと。
インターネット上だけでなく、実際の生活上関わる人たちもこの状況に不安と多種多様な意見を持っている。
上述の通り、精神的に弱っているときは他者の意見の影響を多分に受けてしまうので、それから距離を置く、という意味である。
またレジデンスの外への買い物なども、外に出たという事実が(感染の意味で)不安感を煽る場合があるので最小限に、そしてできたら夫と一緒に行く。
3.自分の弱い時間を自覚する。
夕方から夜にかけては不安感が増大される事が多いので、その時間には特に注意する。
特に注意といっても、天気が悪いときはSNSを見るのを控えたり、ニュースに触れるときに気を引き締めたり、ヨガを行ったり、こどもと触れ合ったり、編み物に集中したり。
危険から身を遠ざけ、自分の心地よさを追求する。
今回の場合、一時期かなり不安感が高まり、それに疲れ、そして「こんなに不安になるほどのことはまだ起こってないじゃないか」と気づいたというのが浮上の大きな要因だったと思う。
子どもが病気になる心配などもしていたのだが、幸いにもアレルギー症状(鼻炎)が天気の良い日にあるだけで、至って健康そうに過ごしているので、今のところそれに関しても何か採れる手もない。
もちろん夫も私も健康だ。
今不安感によって気持ちが落ち込み、体調を崩すより、今の不自由のないこの状態に感謝し、笑って過ごすほうがよほど免疫が高まりそうだ。
今回はこんな落ち着き方だったのだが、割と自分で短期間に元の状態に持ってくることができたので、以前に比べ自分が強くなった自覚があり、自信がついた。
いつか書きたいと思っている内容だが、自分の”レジリエンス”は徐々に確実に鍛えられている、という実感が得られた。
今日は金曜日。
子どもにも少しゆっくりさせて、いつもと違うことも活動に入れてみよう。
ポジティブ心理学
2020年の夏にセリグマン博士の本を何冊か読んだ。
息子の超ネガティブシンキングを心配して、どうにか認知を変えることができないかを模索していて、その過程でたどり着いたのだ。
もともと認知行動療法を子どもにアレンジしたものを探していて、なさそうなら自分でアレンジしようと考えていた。
セリグマン博士の名前は学部生のころから知っていた。
でもその名前は”学習性無力感”という単語とセットで覚えており、他の功績についてはまったく知らなかった。
こんなにも素晴らしい研究と成果を挙げている分野について、なぜ講義がなかったのだろう。
アドラー(個人的に好みではないが)も、今これほどポピュラーであるのにほとんど習った記憶はない。
TED Talkが先だったか、Learned Optimismという本を読んだのが先だったかは覚えていないが、2020年の夏はほとんどセリグマンの理論と方法を学ぶことに費やしたと言っても過言ではないだろう。
Learned Optimismでポジティブ心理学の基礎を学び、そのあとそれを子ども向けにアレンジした方法をまとめたThe Optimistic Childという本を読んだ。
英語の勉強も兼ねていたので原著で読んだが、他のセリグマン本を日本語訳で読んだときに、本当にわかりづらく、それがきっと翻訳のせいだろうと感じられたので、原著で読んでよかったと思う。
両作とも夢中になって読んだ。
ちょこちょこ入るエピソードで専門書感は薄れていて、よく言えば心理学専攻してない人にも読みやすいのかもしれないと思う。
もともと一般向けに書かれたものだろう。
ただ、専門用語が随所に入ってくるので、そういった意味では日本語訳のほうがまだ平易かもしれない。
セリグマンの提唱したポジティブ心理学は、鬱などの精神疾患がない、いわゆる一般の人を対象にしているところが、これまでの心理学と一線を画している。
確かに、それまでの心理学は”治す”ことに焦点を当てたものだった。
なんとか普通の、一般の状態に戻すこと。
ポジティブ心理学の場合は、一般の人が鬱状態にならないように”予防”するための研究であり学問である。
方法論としては、既存の、私の大好きな認知行動療法が元になってるのだが、鬱になりやすい認知を変えることで鬱予備軍の将来の鬱罹患率を下げることができる。
一旦その認知のルートを作って獲得してしまえば、それは一生その人が使える財産になるのだ。
これはまさに私が息子に与えたいと思っていたものだった。
目の前が開けた気がした。
子ども向けに書かれたThe Optimistic Childの教材をまとめ、息子と時間を作って一緒に進めた。
教材自体、ポジティブ心理学のセンターにメールすれば届くと巻末に記載されていたのでメールを送ってみたのだが、どうも今はそのメールアドレスが機能してないようで、何度送ってもエラーがでてしまったのだ。
息子はこの方法は気に入ったようで、一通りレクチャーを終えた今は、自分で実生活で運用する練習をする段階に入っている。
ただ先生役を親がしてしまう弊害がここに出て、ついサボってしまうのだ、お互いに。
こっちもチェックを怠るし、向こうも復習をサボる。
戒めのためにここに書き残すことで、これからもっと意識して実生活で完璧に適用させることを目指したい。
天気と時間と気分
このところ、明らかに情緒不安定なので改善策を必死に模索している。
鬱経験者として、「ヤバい、このままだと本格的に鬱になるぞ」と脳みそが警告しているのが聞こえる。
でも今大丈夫だと思えるのは、家事を問題なくこなせていること、物事の優先順位がつけられること、こどもたちと楽しい時間を過ごすためのアクティビティを考えるとワクワクすること、自分が興味を持ってやりたい勉強があること、そしていつかこの状態も終わるだろうと信じられるからだ。
そしてそれらの材料をもっと増やそうとしている。
このモチベーションは大きい。
こういう輪郭が不明瞭で、一見得体のしれない敵と戦うには、まず相手を知ることが大事。
鬱についてはだいぶもう存じ上げており、闘い方も心得ているのだが、随分と前のことなのと、今回は前回とも状況も自分の立場も違うので今回について考察してみよう。
今日は、不安定になる日と時間についてに絞る。
日について。
平日か休日かはあまり関係なさそう。
コロナ関係のニュースにだいぶ引っ張られている自覚がある。
感染者数が多い、近場に多いなど、直接的な危機感は大いに関係している。
やはり人権や健康の危機に対する反応は大きい。
これは至極当たり前のことで、正常な反応といえる。
あと天気も。
カラッと晴れている空を見ると、単純に気分も晴れる。
たとえ外にでなくても。
気圧の変化でも偏頭痛が起きるので、それも自分の状態に密接に関係している気がしている。
頭が重いと、当然だが気も晴れない。
こればっかりは自分がそういう特徴があることを念頭に置いて、気をつけるしかない。
そしてそういう日に、好きな本を読んだり、好きな音楽を聞いたり、意識的に自分を甘やかして過ごすほうがいいだろう。
時間について。
私は明らかに夜型人間だが、夜はダメだと実感している。
夕方くらいから、考えが負のスパイラルに入りやすい。
ホルモンバランスなのか、一日を駆け抜けた疲れのせいか、気分を浮上させにくくなる。
そして寝づらかったり、睡眠が浅くなったりする。
明らかに夜の過ごし方は課題だ。
もちろん他の要因で、私の気分に大きく関係するものもたくさんありそうなのだが、少しずつこうして整理して立て直していこうと思う。
すでに自分の傾向が見えたことで、いくつかの対策も見えてきている。
まだまだ冷静に考えられそうだし、考えられることもありそうだ。
今があまり良くない状態と思うと、良くなる伸びしろがかなりありそうで救われる。
ここは今の時期頻繁にスコールがあるのだが、多くの場合、それはとても短い時間だ。
聴覚過敏
息子には聴覚過敏の症状がある。
多くの人には想像できないような過敏さで、日常生活にも支障がある。
日常生活に支障がある、ないかで障害かどうかを判断するならば、立派な障害だといえよう。
息子には聴覚過敏以外に、もっと根本的な”障害”があるのだが、今日はその聴覚過敏について。
現在息子は小学校高学年になり、苦手な音に対する反応は随分マイルドになってきた。
ただ音に対する対処法や、自分を抑える方法を身につけた成長があるだけで、音そのものに対する不快や不安の程度はそんなに変わってはいないのだろう。
しかし、対処法なり、自分をコントロールする術を身につけたことは大きく、本人も周りも楽になっている。
言葉の発達も遅かったので、何がそんなに息子を混乱させているのかわからなかった場面も多かった。
運動会のピストルの音や電車の開閉音や、打ち上げ花火の音なのはこちらが推測できるわかりやすい音なのだが、スシローに入った途端、特に大きな音や破裂音もないのに泣き叫び、席についたもののどうにもならず、飲食することなく抱きかかえて退店したことは忘れられない。
今本人に聞くと、「音が嫌だったんだよ」と言う。
今はその音が大丈夫なので、スシローで飲食することは可能だ。
過敏というくらいなので、前述のように日常生活に”問題”や”支障”があることが多いのだが、同時に息子には音楽を人一倍楽しむ能力と技術があるようにも思う。
4年ほどまえからピアノを習い始めた。
指先の力が弱いので、ピアノの鍵盤を押すのには苦労していたが、最初はリズム、そして右手と左手が作る音の響き、特に楽典での理論的な学習には目をキラキラさせた。
過敏さからか絶対音感も生まれつきあるようで、単音でも和音でも苦労なくコピーできる。
ゲームのお気に入りの効果音をすぐにキーボードで再現することを楽しむ。
気分によっては長調の曲を短調に変調させて弾いて気持ちを表現する。
テレビ番組の、私は全く気にも止めない、気づかないほど小さなBGMも、知っている曲だと喜び報告してくる。
そして記憶力も抜群なので、ゲームの音楽だったりすると、どのシリーズのどのステージの音楽なのかもすぐに記憶の引き出しから出せるようだ。
1年前にコロナ禍で帰国できずこちらで夏休みを過ごした際、子どもたちは暇つぶしにウクレレを習い始めたのだが、少しでも音がずれてるとすぐに気づく。
学校のピアノの音のズレにも一番に気づく。
本人にとってはその音のズレはものによっては耐え難いものもあるらしい。
過敏であることと特別な才能を持っていることは、紙一重だ。
場面や人の評価で、良いようにも悪いようにもなる。
多くの場合それらは生得的なものであるから、その感覚のせいで避けられない苦労があるぶん、その感覚があるからこその特別で楽しい経験を、その人生に与えてあげたい。
よこーさん
2021.7.19.
私は二人の子どもたちの子育て期間、ほっとんどテレビを観ずに過ごしていたため昨今の芸能人、歌手、話題のドラマや映画など全てにおいて疎い。
子どもたちが成長するにつれ、NHK教育以外の番組も観るようになってきて、家事をしながらもちらちら眺めていると、本当に少しずつながら俗世に戻ってきたような気がする。
最近アイドル出身のこの女の子が勢いあるのね、とか、医療系ドラマが毎クールあるのね(観てないけど)、とか、カラオケ系番組の尽きない需要に感心したりしている。
その中で『プレバト』はいつの間にか私が夢中になってしまい、今は子どもたちより率先して観るようになった唯一の番組だ。
メインといってもいい俳句コーナーは、夏井先生の毒舌キャラがとても気持ちがよく、また鮮やかな添削も同じくらい気持ちがいいので私も一番のお気に入りだ。
数々の芸能人が俳句に挑戦する中、観始めたときから何人かジャニーズのメンバーが定期的に参加しているのには気づいていた。
が、もちろんこちらは第一子出産前までの情報しか持ち合わせていないので、整った顔立ちだな、誰だろ、また新しいグループの誰かかな、くらいの感想しか持てない。
それでも観続けるうちに名前と顔が一致するようになり、グループの名前も耳から覚えた。
ただそれでもそのグループが何人なのか、デビューして何年くらいなのか、どんな歌を歌ってきたのか、そして芸能界での立ち位置など皆目検討もつかない。
それでも見た目が好みで、『プレバト』の俳句コーナーでもなんだかいい線いっている横尾さんのことがだんだん気になりだした。
いくつくらいなんだろう?から、元来のオタク気質で調べてみたり(インターネットすごい)、だんだん同じグループの他のメンバーのことも自然に把握できるようになった。
そしてそのグループ全体が好きだな、というゾーンに入る。
そうなると、現代的にいえばもう”沼”である。
ずぶずぶとハマるのみ。
ファンといえるほどのものなのかわからない。
海外にいることもあり、ファンクラブに入ろうとも思わないし、CDやDVDを発売日に手に入れるわけでもない。
複数の限定版と通常版など、ほぼほぼ同じ内容のものを何枚も買う感覚はわかるような気もするが、たぶん私はしないだろう。
でもそのグループの誰かがテレビに出るなら見ようと思うし(全番組を観ようとは思わないけど)、ネットニュースに誰かの名前があればついチェックする。
そこはでもネットニュース。
つい読んでしまうけれど、信憑性が薄いのも多く、特に芸能人に関するものはあまり真に受けないようにはしている。
先日、”キスマイ横尾 熱愛認める”のような見出しがあったのでついクリックしてしまった。
どうやらこれは写真や具体的なインタビューがあり割と裏があるネタのようだが、ここでまず私が気になったのはこの記事に対する周りのファンたちの反応であった。
いわゆる”炎上”というような事態が突然真剣に心配になった。
ファンは、推しの熱愛に対してどう反応するのだろう?
Yahoo!ニュースの反応をまずチェックすると、概ね熱愛発覚に好意的な反応が多く、それは私を大いにほっとさせた。
次にツイッターを見てみると、最初に目に飛び込んだのは好意的な反応、そして悲しみ戸惑いながらも理解しようという健気なつぶやき。
そしてその他の多くは、悲しみ+怒り。
年齢に対する理解、アイドルという職業とはいえ恋愛する権利があるという意見や、逆に責任感への疑問。
グループの10周年を迎える今というタイミングだったことへの嫌悪、などなど。
どうやら今回はお相手が以前なにかやらかした人じゃないかという疑念があり、またそれがファンにとっては心苦しい理由のひとつのようだ。
正直なところ、上記のようなマイナスの反応はわからなくもない。
ちゃんと言おう、わかる。
ただこの歳になると、横尾さん本人の年齢だったり、お相手の年齢だったり、今までそこそこ交際を隠しながらお相手もファンも大事にしてこようとしてきたのでは?と推測したりすることで、最終的に「本人の人生も大事だからねぇ」という想いに集約される。
週刊誌への対応だったり、語ったとされる内容に対して、またお相手の以前の行動に対して、今というタイミングに対して、ファンはそれぞれ思うところがあるだろう。
そう、それぞれ。
それぞれの似たようなマイナスの反応は同じような感情でも、一つ一つは微妙に違っているのだ。
なのに否定的な意見や感情というのは、ポジティブなものに比べてどうしてこんなにも早急にパワーを得ていく。
好意的な意見よりも、同士を見つけたときの連帯感が大きく感じられる。
そして憶測だけれど、本人に届くのも早く、衝撃も大きいのだろうと思う。
どうかちゃんとした割合と大きさで、正確に本人に届きますように。
支持も、批判も、不満も。
そして、どの歳になってもハマれるアイドルを放出し続けるジャニーズ事務所ってやっぱりすごいな、と俗世に帰ってきた浦島太郎は思ったわけです。
スペイン語
最近はスペイン語の勉強がとても楽しい。
英語も相変わらず楽しいのだが、ある程度のレベルになると進歩が目に見えづらく、アメリカのスポーツニュースや音楽番組だったり、洋書を読んだりすることで少しでも上達を図ろうとしているのだけど、道のりの長さったらない。
そしてやはり幼少期を主に母語の日本語の環境のなかで過ごしたため、言語獲得の臨界期はとうに過ぎたのもあり、ネイティブレベルを目標としているわけでもない。
やはり言語と文化は密接に関わっているので、どうしてもストンとこない表現も多いのは致し方ないのだ。
さて、スペイン語の勉強について。
始めたのはおそらく2,3年ほどまえからになる。
きっかけは、息子に「中国語とスペイン語を習いたいから先生をさがしてくれ」と頼まれたことだ。
幸いにも中国語の先生は、クラスメイトの台湾の子の保護者が引き受けてくれ無事習い始めることができたのだが、問題がスペイン語の先生だった。
スペイン語を母語とする生徒が学校に少なく、頼めそうな知り合いがいない。
学校でスペイン語クラスを持っている先生も、忙しくてプライベートレッスンまで手が回らない。(学校の授業は中高生じゃないと語学の選択ができず、息子は当時小学生だった)
ラジオは視聴できないので(あとから方法があったと知るが)、テレビの講座を4月から毎週見ることにした。
なんせ何の基礎もない初心者だったので文法的な解説や単語力をつけることを期待していたのだが、中国語や英語などの講座とは違い、『旅するスペイン語』という番組名でスペインのいろいろな地方を旅しながらスペイン語を使ってみるというスタイルだった。
もはやスペイン語を使いながら旅をする、という旅メインのような番組だった。
旅番組としてはとても面白かったし、それぞれの地方の観光地なども興味深かったのだけど、語学の学習として活用するのはちょっと難しい。
それでも他に方法がないため、こどもが学校に行っている間に先に視聴し、ポイントをノートにまとめ、こどもはそれを見ながらテレビの講座で勉強をした。
とりあえず最初の1年間は私はノートを取り続け、息子は欠かさずノート片手に視聴した。
自分でも1年間よくやったと思う。
ありきたりだが、あのときの私を褒めてやりたい。
その後運良く、私の大学時代の先輩が息子のスペイン語の先生を引き受けてくれ今に至る。
私も、そのころにはスペイン語や文化に対する興味も大きくなってきていたので自分の先生もなんとか見つけたが、その先生方の引っ越しや出産などでなかなか継続して学習することは難しかった。
今ようやくスペイン語のオンラインレッスンの会社を通していい先生を見つけることができ、定期的にレッスンを受けている。
このご時世、オンラインが最強だ。ありがたい。
自分でひっそり勉強してきたとはいえ、先生のレッスンのおかげでさらにスペイン語学習が楽しくなってきた。
しばらくはやればやるほど上達するだろうし、その楽しさを存分に味わおうと思う。