情が薄い

「情が薄い」というと、”悪”のように聞こえる。

 

特に日本をはじめ、アジアは情をめちゃくちゃ重んじる文化だし。

これをトピックに据える時点で私自身はそれを"悪”だなんて微塵にも思ってないわけだけど…。

 

もちろん、自分の、この明らかな立場を誰かに言ったりはしないし、むしろ"情に厚いです”かのような態度すらとったりもする。

それはもちろんその態度を文化として期待されていると感じるからである。

 

 

だが果たして、情に厚いとどのようないいことがあるのだろうか。

 

いや、それはね、たぶん。

人から”情に厚い人”というラベルを貰えるだけだと思うのですよ。

そしてそのラベルから実際的に負担相応の対価なんぞ期待できない実感があるんですよ。

 

例えば、”情に厚い人”というラベルと頂いたとして。

その人に対して人は何をするか。

…頼みごとでは・・・?

それも他の人が引き受けてくれなそうな厄介なやつ。

そして”情に厚い人”というラベルを全身に貼り付けられた私はすごくそれを断りづらい。

実際断ったとしても相応の他の仕事を引き受けることを引き合いにすら出してしまう、なんてことになりそうな気がしませんか?

 

 

本当に本当に心から、人の為に、という人が存在するのは存じております。

私にも知り合いにおります。

しかし、それはほんのほんの僅かなパーセンテージで、絶滅危惧種のように守られる価値があり、またアンチなどという人すら存在させない、もうユニコーンのような存在なんですよ(体感)。

 

 

”情”を理由に人の為に動ける、そんな人になれてたらどんなに素晴らしかったか、とはもちろん思うけど、残念ながらその他大勢のわたしは世間の”情”の価値に疑問を抱くのです。

 

 

”情”に価値を置いてる皆さん、本当に”情に厚い人”を尊敬して大切に扱っていますか?

都合の良い時に頼んだり頼る人にしてませんか?

寛容になりたい

昔ほど人にも自分にも厳しくはないが、私の周りの人が寛容すぎて、自分の器の小ささに未だにかっがりすることがある。

’自分にがっかり’って言ったって、それも昔ほど深刻なんかじゃない。

せいぜい「いや、ほんと私の友人たちって人間できてるな」って、羨ましくは思うし、そうなりたいとも思うけど、「ま、仕方ないか、簡単には変われないよな」で終わる。

そんなプチがっかり。

 

’私ってこういう人間だから’という文句をかっこいいと思える時期も過ぎた。

’私ってこういう人間だから’という文句が結構恥ずかしいことも今はわかる。

だから、寛容になりきれないことを自分の性だと公言するのは憚られる。

(いや、ほんと、自分の欠点を、それを改善する気がないことを、よくもあああんなに高らかに宣言してたのか)

 

寛容になれるものならなりたいさ。

 

自分と考え方が違う人に対して。

自分のやり方と違う人に対して。

自分の文化と違う文化に対して。

自分の主義と異なる主義に対して。

 

ひとつ言っておくと、私は私と異なるモノを排除したりしようとはしない。

自分に不利益がない限り、批判もしたりもしない。

 

違う人の意見も聞くし、違うモノの本質も調べる。

頭での理解はする。

 

ただ、そこから自分を寄せることは一切しない、していない、と思う。

 

【エンパシー】という言葉を知り、そのパワーを知り、私はどこまでその力を身につけられているのかを考えてみた。

【シンパシー】に比べれば非常にとっつきやすいし、理解できるし、有用で、おそらく私にも育てることができそうな能力である。

 

ただ、私はパーソナルスペースが人より広いゆえに、人のパーソナルスペースも広く見積もり、そもそも他人とそれほど近くなることがない。

他人に関して聞きたいことも知りたいこともそんなにない。

言ってしまうと、他人に対して興味がない。

ひいては物事に対しても。

 

いや、待てよ。

寛容以前に、私に必要なものは、人やものに対する'関心’なのではないだろうか!!!

 

特に人に対する’関心’のなさは、ここ最近甚だしい。

ただ、人に対する関心なんてあったところで邪魔な気がしませんか・・・?

 

人に対する関心は、恥ずかしながら私には嫉妬や劣等感、優越感を伴う場合が多く、私はこれらの感情に対していいイメージがない。

むしろ自己嫌悪の原因になる負の材料でしかない。

私は誰かを羨ましく思いたくない。

妬みたくない。

誰かより劣ってるとも、勝ってるとも思いたくない。

これらの感情は、自分自身をひどく疲弊されるだけ、まさに百害あって一利なし。

 

などと言ってる時点で、自分と異なるものに対する寛容を語るなんて、そんな次元に達してなかったことに気づいた。

 

>違う人の意見も聞くし、違うモノの本質も調べる。

>頭での理解はする。

などとついさっきキーボードを叩いたばかりにも関わらず、これも非常に限定的なエリアや場合のみだったことに気づいてしまった。

 

自分の嫉妬心や劣等感、自分が誰かと比べて優劣感を持ってしまう罪悪感をそのまま受け入れられるようになるのは、あとどのくらいの年齢が必要だろうか。

柔軟性の価値

10代、20代、私は"変わらないこと”、”一貫していること”が何より大事だと思っていた。

コロコロ意見を変える人、人によって態度の違う人、言葉と行動が違う人、前言ったことと覚えてない人は最低な人間だと思っていたし、そんな人間にはなりたくないと心底軽蔑していた。

 

だからこそ、自分の発言には責任を持てるよう吟味してから話すし、なにかいつもと違うことをするには言い訳を用意してからにした。

”ちゃんとした人間じゃない”と思われたくなかった。

 

とても窮屈で、日々制約が増えていく。

突然、たぶん本当は少しずつ壊れていったのは、必然だったのだと思う。

 

今は”変わること”、”変われること”がいかに価値のあることかがわかる。

 

そもそも、この世界が日々刻々と変化しているのだ、人間が変わらないほうがおかしい。

この世界の変化に合わせて、自分も変わっていかなければ適応しきれない。

変わることで生きやすく、生き延びる。

 

生活スタイルを変える、収入源を変える、起床時間を変える、食べ物を変える、お酒の量を変える、ボランティアに割く時間の割合を変える、両親への連絡頻度を変える。

 

 

”変わること””変えること”をこんなにも当たり前のように受け入れられるようになったのは、やはり子どもを持ったことによるだろう。

子どもの成長に合わせて、何もかも、食事も睡眠も起床時間もおやつも、自分の意思とは関係なく、自分の生活を変えていく。

それ自体はあまりに自然で、そのときそのときがあまりにもあるべき姿すぎた。

そして子どもも、その変わっていく姿があまりにも自然で美しかった。

 

 

何かを注意されると、自分の人格全てを否定されたような気持ちになっていた。

注意される部分を持つ自分は愛されないと思っていた。

 

自分は、「Aさんはこういうところがちょっと合わないけど、友達として好きなんだよね」なんて言うのに、友達にダメなところを指摘されるのには耐えられなかった。

恋人に何か指摘されたら、もう私のこと好きじゃないんだ、と感じた。

もう別れるんだろうな、と覚悟した。

 

そのうち、やっと、なにかひとつふたつ嫌なところがあるくらいじゃ、”好き”という気持ちは揺るがないことを知った。

 

 

なにか問題が起きたらすぐに白黒つけたがった。

今この場ではっきりするなら、黒とはっきりすぐに言ってくれたほうがいいと思っていた。

宙ぶらりんの時間に耐えられなかった。

 

今は、すぐに答えがでないことが世の中に多いことがわかった。

むしろすぐに答えが出ないことのほうが多いとわかった。

そして、すぐに出される答えはたいてい良くないこともわかった。

 

時間が何かを変えることが多いことを知った。

人も環境も事情も、自分の気持ちも変える。

時間が経つと、たいした問題じゃないことも多かった。

 

 

全部まとめて”柔軟性”と呼んでいいのかはわからない。

30代、たおやかに、折れることは少なくなったと思う。

 

前と違った自分でいいじゃないか、と思えるようになったと思う。

迷惑をかけることは罪か

ブレイディみかこさんの『他者の靴を履く』を読んでいる。

まだ半分ちょいなのだが、彼女の文体が心地よく、彼女の他の本ももっと読んでみようと思っているくらい気に入っている。

内容も、自分が言語化を諦めてしまう面倒くさい+複雑な問題や感情を、コレ!という言葉で説明してくれるのでとても気持ちがいい。

 

そして、たぶん、日本以外に住む日本人としてどこか共感できる部分があることは否めない。

日本を外から見る機会なんて、しかも子育て中の母の立場からなんて、そうそうないのだ。

 

 

気になる箇所も多いので、ブレイディみかこさんの本を読むときは、いつもマークでいっぱいになる。

こういう本こそ紙媒体で読みたいのだが仕方ない。

 

つい昨夜読んだところに、日本の”迷惑”の概念について言及している部分があった。

このコロナ禍、一文一文が染みる。

 

【自分が感染していることを知りながら接触して、他の人に感染させてしまったら、guilt(罪悪感)を感じる。

日本語では、他人にそれは迷惑をかける、と言うが、本来「迷惑をかける」という言葉は「誰かに不快な気持ちや悩ましい不都合をもたらすこと」であり、「guilt」のようなシリアスさはないはずである。

しかし、日本では、日本では人を嫌な気持ちにさせることと、罪を連想させる「guilt」がほぼイコールのような形で結びついている】

 

抜粋ではないのだが、こういった内容である。

 

そのあとの、この「迷惑をかけたくない」という日本人の考え方はとても自己中心的だという議論もとても面白く、非常に納得させられたのだが、この「guilt」と「迷惑をかける」について考えさせられる出来事が直近であったので、今日はこちらだけにフォーカスしたい。

 

 

端的に申し上げて、私のなかで「guilt」と「迷惑をかける」はイコールだ。

「迷惑をかける」という言葉は非常に抽象的ながら、生活のあらゆる場面で「迷惑をかける」、慎むべき行為が具体的に想起される。

幼い頃、「人に迷惑をかけないの!」と叱られれば、自分の思慮の浅い行為は非常に罪深いものに思われたし、「人に迷惑をかける」ような人間は価値がないと、言ってみれば罪人のように悪い人だというように教えられてきた。

もちろん、「迷惑をかける人=罪人」という等式で先生や親から教わるわけではない。

ただ「迷惑をかける」状況やそのときの叱られ方などから、それほどまでに重いニュアンスや意味を子どもたちは汲み取り、そんな「迷惑をかける」ような人間にならないよう努力し、またそれを周りにも要求し、そして自分が親になった時に同じように子どもを教育するのである。

 

典型的な日本人の両親に育てられた私は、たしかに、「迷惑をかける」ことを極端に恐れている。

それは、他でもない「罪」だからだ。

自分がコロナに感染し、そのせいで夫の職場や子どもの友達や学校関係の人々が不都合や不利益を被ることを、自分の症状以上に恐れている。

正確に言うと、自分がその不都合や不利益を与えたことにより、その人達からどう思われるか、「迷惑なやつだなぁ」と思われることを恐れている、と言ったほうが正確か。

それは先程言及した、自己中心的な考え方にもこの本とは違う方向から繋がるのかもしれない。

 

 

ただ、今回このコロナ感染に関する「guilt」の意識について、この程度の問題で「guilt」なんてほどの重い感情を覚えない人も結構いるのかもしれないな、と感じることがあった。

コロナが国中に蔓延した状況を承知しながら旅行に行き、コロナに感染し、そのせいで仕事や周りに迷惑をかけつつも、謝罪もなく、さらっと'Unfortunatelly'と言う、子どもたちの学校のアメリカ人の教師たちである。

 

誤解しないでいただきたいのだが、コロナに感染することが悪い、罪の意識を持て、と言っているのではない。

アメリカ人が全員そうとも思わない。

しかし、物事の重大さの認識の乖離に、若干の絶望を覚えた。

まだワクチンを打っていない子どもと接する仕事ながら、コロナの蔓延している中旅行し、それをSNSに挙げ、結果コロナに感染し、授業ができずに生徒の教育の機会を奪い、それに「guilt」を感じてなさそうな態度。

そして、本来の、軽い意味での、他人に「迷惑」をかけたという意識もないのだろう。

予想しつつも実際に目の辺りにすると、いささかショックを覚えずにはいられなかった。

 

ただ、今私の読んでいる本のタイトルは『他者の靴を履く』だ。

私も自分の靴を抜いで、彼らの靴を履く。

この本のトピックのコグニティブ・シンパシーはこういう場面でこそ発揮されるべきだと説かれている(と現時点で解釈している)。

オードリー・タン

息子がオードリー・タンさんに興味を持っているようだ。

台湾のコロナ政策が成功を収め、マスクマップや国民に対する情報公開などデジタル庁の役割がフォーカスされ、オードリー・タンさんに世界からの注目が集まった。

 

日本のテレビ、子供向けのNHKの番組でも彼女の特集が組まれ、息子はその番組を見て彼女のことを知ったようだ。

それ以前にも私が軽く台湾の政策や、台湾の現在の女性総統、そしてオードリー・タンさんの話は伝えていたと思う。

私も大きく感銘を受けていたのだ。

 

数日前にまた息子が彼女の話を始めたので、彼女の本を読んでみたら?と勧めてみた。

調べてみると数冊以上の本が出版されており、タイトルと評価をざっと見て候補を絞る。

少々の調査の後、「これなんか良さそうじゃない?」と具体的に息子に勧めたら、「お母さんがまず読んで、良かったら僕も読む」ととても間違いがないがちょっと失礼な提案をしてきた。

まぁ私も興味あるしな、と、息子に甘すぎるかな、と、いくつかの考えが頭をよぎるが、結局それに乗っかることにした。

 

結局選択したのは、『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』。

読者数も多そうで、なんとなく内容がまとまっていそうな感じがした。

 

読んでみると、語り口調で、話を聞いているかのように文章がすらすらと頭に入ってきて、現在小学校5年生の息子にも十分読めそうな本だった。

もちろん小学生には難しい内容、人の思想だったり、政策内容だったり、台湾の歴史の話もあるのだが、それを流し読みしたとしても、息子の中に残るものは十二分にありそうな内容である。

大人の私が読んでも、ページをめくる度に脳を活性化させられるような、ハッとする発見や考え方、ときおり我が身を省みる言葉に出会う。

民主主義、教育、社会、IT、子育て、マイノリティ、仕事・・・

 

彼女の文章は明快で、論理的で、正直だ。

もともと彼女に対してとてもいいイメージを持っていた、贔屓目があると認めた上で、彼女の言葉を読めば読むほど、知れば知るほど、魅力的な方だなぁと思わずにいられない。

 

彼女のように、人を、物事を、社会を、ニュートラルに分析できたら、きっと心は穏やかなんだろう。

デジタル庁の仕事に加え、政務以外のこともこなすのは激務であるだろうし、処理しなければならない事案も一般の人の何倍にもなるだろうが、彼女の言葉からはその大変さは感じず、その全てをスピーディーに淡々と楽しんで片付けている印象である。

 

特に(いい意味で)理解できなかったのは、就寝前に資料を読み込んでおくと、起きたら答えが出ている、という現象で、もうこれは特殊な能力としか私には思えない。

まず、資料を読み込んだあと、何も思案せずにすぐに眠りにつけるのも信じられないし、就寝中にそれを夢で処理するなんてこと、夢をコントロールしているような感覚なんて万人にあるはずもないだろう。

もちろん、その結論を周りと共有するための言語化なり論理化の作業は"起きている"オードリー・タン氏が行うのだが。

 

私の感想がとっ散らかってしまっているが、この夢の部分以外はほぼすんなりと自分に入ってきて、とても気持ちの良い本だった。

真っ当なことを論理立てて、誰にでもわかるような文で本になっている。

 

私は子育て中の親の立場でこの本を読んでいたのだが、クリエイティブシンキング(想いを正確に言語化する能力)、クリティカルシンキングに関する彼女の意見には非常に納得させられ、日頃の自分の親としての子どもへの関わり方を非常に反省させられている。

 

息子はまだ読み始めていないが、彼には彼女の考え方のどの部分が刺さるだろう。

彼の想いを正確に受け取りたいので、彼が不得意である想いの言語化を辛抱強くサポートして、人に自分の想いをわかってもらうという成功体験を味わわせたい。

言語化されなかった想いはなかったことになるか

人は多かれ少なかれ想いや感情を持つ生き物だ。

ただその表出の仕方は人による。

素直にそれを表現する人もいれば、自分のなかで消化する人もいる。

この違いは、持って生まれた性格、によるものなのだろうか。

 

もともと私は全て表出したいし、表出しようとしていた。

自分のことを周りにわかってほしいと強く思うタイプだったんだと思う。

特に10代の頃はその想いが顕著だったし、周りもその傾向があったように感じる。

ティーン特有の、自分探しなるものと相まって、たぶんほとんどの人にとってそういう期間なんだと思う。

 

20代後半になり、子どもも持つと、物理的に「わかってほしい」ことを整理して言語化して伝える時間が惜しくなる。

ただでさえ、子育て、仕事で時間がなく、また子育ては自分のスケジュール通りに進んでくれない。

頭の中のからまりがやっとほぐれそうになって、もうそこまで想いが正確な言葉を見つけそうになって、というところで子どもの泣き声に生活に引き戻され、掴みかけてた言葉はもう手が届かないところに離れてしまっている。

それをもう一度掴むには、一度目以上の精神力が必要だ。

そこでもう想いや感情の言語化を諦めてしまうのだ。

言葉にしようと思っていた、きちんと整理して消化して、今後の人生に役立てようと思っていた自分の体験からくる感情は、もやもやしたまま自分の四肢にじんわりと染み込んで、だんだん薄まっていく。

そのような体験が次々に重なって、自分の体はもやもやした薄い液体が混ざって、自分でもそれを分化も消化もできず、自分の体が何でできているのか、構成成分を見つけることができない。

 

この言語化さえなかった思いや感情は、果たしてどうなるのか。

時間の経過とともにある程度薄まって、やがて風化して、空気中に蒸発するように消えてなくなるのだろうか。

 

私はこの10年ほど、極めて多くの想いや感情をこのように扱って、なかったことのようにしてきてしまった気がする。

というと、とても後悔しているように聞こえるかも知れないが、子育て中のライフハックなのかもしれないとも思う。

子育て中はあまりにも日々が目まぐるしくて、自分の思うようにならないことも多すぎて、まともに分析し始めたら、それこそ自己嫌悪と後悔で再起不能になるようなことばかりだ。

自分がきちんと愛情をかけられているのか、生活をまともに動かせているのか、どこか手を抜いているところはないか、真面目にチェックしたら自分のダメさに消えてしまいたくなるだろう。

曖昧にして忘れなければ、子育てなんてやってけない、と言ったら語弊があるだろうか。

 

ただ、結局、全てを忘れているかと言ったらそうでもないし、今になっても湧き出てくる消化できなかった想いや感情が、ふとしたときに感覚を伴って自分に襲ってくる瞬間がある。

おそらく特に強いインパクトを伴うものは消えてもないし、まだ指の先のような自分の末端でくすぶっている。

 

 

私はきっとそんなことを思ってこのブログを始めた。

感情を整理して表出することには意味があると思っている。

もちろん聞いているほうにでなく、自分にとって。

 

ただまだ日々に忙殺されている自分がいて、感情の整理はおざなりになっているなぁと感じる。

記事の間隔の空き方から見ても明らかなのだが・・・。

 

だから、これは、まだ言語化してなかった想いのひとつの記録。

昨今の”選択”について

この国のコロナ感染者数は今現在過去最悪で、この街の感染者数も急に千人の大台に近づきつつある。

夫と私は幸いにもワクチン2回接種済みだが、子どもたちはまだふたりとも12歳未満なので未接種である。

となると、必然的にとれる手段は限られてきて、この冬休みはステイホーム。

幸いレジデンス内に子どもが外で遊ぶ場所もたっぷりあるので、ステイ・インサイド・レジデンス。

 

私にとっては、この状況下、ステイ・インサイド・レジデンス一択だったのだが、フェイスブックを見てみると、他にも選択肢はありそうである。

夏以前のような厳しい移動制限、検疫規則などがないため、ご夫婦で飛行機に乗って国内リゾート、またベトナムで唯一雪が見れるという山へドライブ、など結構アクティブに動いているグループもあるらしい。

 

どうせ冬休み明けてもオンラインラーニングだろうから、誰かが旅行することによる感染リスクなんて考えなくてよさそうでレスストレス。

ただ純粋に「いいな~」という気持ちがむくむく湧いてきてしまうのも事実で、私自身の精神的修行が足りないことを身につまされて途端に情けなくなってしまうことだけが気になっている。

 

私はもともと物欲なんぞより、旅欲なるものが強くて、旅行が大好きなのだ。

国内でも、滅多に行く機会のない海外なら尚更。

特に、目的地に世界史で習った遺跡や建造物があるなら最高。

子どもができてからは、純粋にゆっくりするためのリゾート旅行の仕方も気に入って、私にとって国外にいるこのチャンスは、まさに”旅行のチャンス”そのものなのである。

 

そんなわけで、この状況下で勇気を出して(?)旅行に行っている様子を見たり聞いたりすると、「え~行けるなら私も行きたい」という子どものような気持ちが湧いてくるのだ。

 

だからといって、いざ計画したりするまでには至らないのだから、私の価値基準では旅行より優先されるものがあるということ。

それはたぶん家族の、特に子どもたちの健康であり、危険性が少なくともそれを侵すような真似は避けたい、という強い希望だ。

もともと石橋を叩きまくる性格でもあり、何かの決断につけて最悪の事態を想定する。

となると、この状況下、どうやって旅行の計画など私に立てることができようか!!??

 

それがわかっているので、いちいち「いいな~」などと思う気持ちを抱くのすら面倒くさく、できれば何の心も動かされたくないのだが、やはりまだ「いいな~」と思うのを止められない。

それでも以前より自分の決断に理由があるからか、自分の価値基準を把握しているからか、「人が何を選択しようと。私はこちらを選択する」という、何かどっしり自分のなかで動かないものを感じている。

以前よりは周りの選択に自分の選択が影響されない、自負がある。

 

この感覚はここ数年でやっと感じられるようになってきたものだろうか。

自分の決断に自信というか、揺るぎないものを感じることができる。

「私はこうだ」「私はこういうふうに考える人間だ」という自分自身への理解。

決めつけも、頑固になるもの良くないが、何が正しい選択なのか、例えばワクチンを打つのか、帰国するのか、子どもを学校に行かせるのか、誰も何が正解だなんて自信を持って断言できない現在、自分の価値基準とそれによる判断に責任を持つしかできることはない。

誰もが最善と思える選択をとっている。

旅行に行く、のもそのひとつ。

行かない、のもそのひとつ。