柔軟性の価値

10代、20代、私は"変わらないこと”、”一貫していること”が何より大事だと思っていた。

コロコロ意見を変える人、人によって態度の違う人、言葉と行動が違う人、前言ったことと覚えてない人は最低な人間だと思っていたし、そんな人間にはなりたくないと心底軽蔑していた。

 

だからこそ、自分の発言には責任を持てるよう吟味してから話すし、なにかいつもと違うことをするには言い訳を用意してからにした。

”ちゃんとした人間じゃない”と思われたくなかった。

 

とても窮屈で、日々制約が増えていく。

突然、たぶん本当は少しずつ壊れていったのは、必然だったのだと思う。

 

今は”変わること”、”変われること”がいかに価値のあることかがわかる。

 

そもそも、この世界が日々刻々と変化しているのだ、人間が変わらないほうがおかしい。

この世界の変化に合わせて、自分も変わっていかなければ適応しきれない。

変わることで生きやすく、生き延びる。

 

生活スタイルを変える、収入源を変える、起床時間を変える、食べ物を変える、お酒の量を変える、ボランティアに割く時間の割合を変える、両親への連絡頻度を変える。

 

 

”変わること””変えること”をこんなにも当たり前のように受け入れられるようになったのは、やはり子どもを持ったことによるだろう。

子どもの成長に合わせて、何もかも、食事も睡眠も起床時間もおやつも、自分の意思とは関係なく、自分の生活を変えていく。

それ自体はあまりに自然で、そのときそのときがあまりにもあるべき姿すぎた。

そして子どもも、その変わっていく姿があまりにも自然で美しかった。

 

 

何かを注意されると、自分の人格全てを否定されたような気持ちになっていた。

注意される部分を持つ自分は愛されないと思っていた。

 

自分は、「Aさんはこういうところがちょっと合わないけど、友達として好きなんだよね」なんて言うのに、友達にダメなところを指摘されるのには耐えられなかった。

恋人に何か指摘されたら、もう私のこと好きじゃないんだ、と感じた。

もう別れるんだろうな、と覚悟した。

 

そのうち、やっと、なにかひとつふたつ嫌なところがあるくらいじゃ、”好き”という気持ちは揺るがないことを知った。

 

 

なにか問題が起きたらすぐに白黒つけたがった。

今この場ではっきりするなら、黒とはっきりすぐに言ってくれたほうがいいと思っていた。

宙ぶらりんの時間に耐えられなかった。

 

今は、すぐに答えがでないことが世の中に多いことがわかった。

むしろすぐに答えが出ないことのほうが多いとわかった。

そして、すぐに出される答えはたいてい良くないこともわかった。

 

時間が何かを変えることが多いことを知った。

人も環境も事情も、自分の気持ちも変える。

時間が経つと、たいした問題じゃないことも多かった。

 

 

全部まとめて”柔軟性”と呼んでいいのかはわからない。

30代、たおやかに、折れることは少なくなったと思う。

 

前と違った自分でいいじゃないか、と思えるようになったと思う。