迷惑をかけることは罪か

ブレイディみかこさんの『他者の靴を履く』を読んでいる。

まだ半分ちょいなのだが、彼女の文体が心地よく、彼女の他の本ももっと読んでみようと思っているくらい気に入っている。

内容も、自分が言語化を諦めてしまう面倒くさい+複雑な問題や感情を、コレ!という言葉で説明してくれるのでとても気持ちがいい。

 

そして、たぶん、日本以外に住む日本人としてどこか共感できる部分があることは否めない。

日本を外から見る機会なんて、しかも子育て中の母の立場からなんて、そうそうないのだ。

 

 

気になる箇所も多いので、ブレイディみかこさんの本を読むときは、いつもマークでいっぱいになる。

こういう本こそ紙媒体で読みたいのだが仕方ない。

 

つい昨夜読んだところに、日本の”迷惑”の概念について言及している部分があった。

このコロナ禍、一文一文が染みる。

 

【自分が感染していることを知りながら接触して、他の人に感染させてしまったら、guilt(罪悪感)を感じる。

日本語では、他人にそれは迷惑をかける、と言うが、本来「迷惑をかける」という言葉は「誰かに不快な気持ちや悩ましい不都合をもたらすこと」であり、「guilt」のようなシリアスさはないはずである。

しかし、日本では、日本では人を嫌な気持ちにさせることと、罪を連想させる「guilt」がほぼイコールのような形で結びついている】

 

抜粋ではないのだが、こういった内容である。

 

そのあとの、この「迷惑をかけたくない」という日本人の考え方はとても自己中心的だという議論もとても面白く、非常に納得させられたのだが、この「guilt」と「迷惑をかける」について考えさせられる出来事が直近であったので、今日はこちらだけにフォーカスしたい。

 

 

端的に申し上げて、私のなかで「guilt」と「迷惑をかける」はイコールだ。

「迷惑をかける」という言葉は非常に抽象的ながら、生活のあらゆる場面で「迷惑をかける」、慎むべき行為が具体的に想起される。

幼い頃、「人に迷惑をかけないの!」と叱られれば、自分の思慮の浅い行為は非常に罪深いものに思われたし、「人に迷惑をかける」ような人間は価値がないと、言ってみれば罪人のように悪い人だというように教えられてきた。

もちろん、「迷惑をかける人=罪人」という等式で先生や親から教わるわけではない。

ただ「迷惑をかける」状況やそのときの叱られ方などから、それほどまでに重いニュアンスや意味を子どもたちは汲み取り、そんな「迷惑をかける」ような人間にならないよう努力し、またそれを周りにも要求し、そして自分が親になった時に同じように子どもを教育するのである。

 

典型的な日本人の両親に育てられた私は、たしかに、「迷惑をかける」ことを極端に恐れている。

それは、他でもない「罪」だからだ。

自分がコロナに感染し、そのせいで夫の職場や子どもの友達や学校関係の人々が不都合や不利益を被ることを、自分の症状以上に恐れている。

正確に言うと、自分がその不都合や不利益を与えたことにより、その人達からどう思われるか、「迷惑なやつだなぁ」と思われることを恐れている、と言ったほうが正確か。

それは先程言及した、自己中心的な考え方にもこの本とは違う方向から繋がるのかもしれない。

 

 

ただ、今回このコロナ感染に関する「guilt」の意識について、この程度の問題で「guilt」なんてほどの重い感情を覚えない人も結構いるのかもしれないな、と感じることがあった。

コロナが国中に蔓延した状況を承知しながら旅行に行き、コロナに感染し、そのせいで仕事や周りに迷惑をかけつつも、謝罪もなく、さらっと'Unfortunatelly'と言う、子どもたちの学校のアメリカ人の教師たちである。

 

誤解しないでいただきたいのだが、コロナに感染することが悪い、罪の意識を持て、と言っているのではない。

アメリカ人が全員そうとも思わない。

しかし、物事の重大さの認識の乖離に、若干の絶望を覚えた。

まだワクチンを打っていない子どもと接する仕事ながら、コロナの蔓延している中旅行し、それをSNSに挙げ、結果コロナに感染し、授業ができずに生徒の教育の機会を奪い、それに「guilt」を感じてなさそうな態度。

そして、本来の、軽い意味での、他人に「迷惑」をかけたという意識もないのだろう。

予想しつつも実際に目の辺りにすると、いささかショックを覚えずにはいられなかった。

 

ただ、今私の読んでいる本のタイトルは『他者の靴を履く』だ。

私も自分の靴を抜いで、彼らの靴を履く。

この本のトピックのコグニティブ・シンパシーはこういう場面でこそ発揮されるべきだと説かれている(と現時点で解釈している)。