寛容になりたい

昔ほど人にも自分にも厳しくはないが、私の周りの人が寛容すぎて、自分の器の小ささに未だにかっがりすることがある。

’自分にがっかり’って言ったって、それも昔ほど深刻なんかじゃない。

せいぜい「いや、ほんと私の友人たちって人間できてるな」って、羨ましくは思うし、そうなりたいとも思うけど、「ま、仕方ないか、簡単には変われないよな」で終わる。

そんなプチがっかり。

 

’私ってこういう人間だから’という文句をかっこいいと思える時期も過ぎた。

’私ってこういう人間だから’という文句が結構恥ずかしいことも今はわかる。

だから、寛容になりきれないことを自分の性だと公言するのは憚られる。

(いや、ほんと、自分の欠点を、それを改善する気がないことを、よくもあああんなに高らかに宣言してたのか)

 

寛容になれるものならなりたいさ。

 

自分と考え方が違う人に対して。

自分のやり方と違う人に対して。

自分の文化と違う文化に対して。

自分の主義と異なる主義に対して。

 

ひとつ言っておくと、私は私と異なるモノを排除したりしようとはしない。

自分に不利益がない限り、批判もしたりもしない。

 

違う人の意見も聞くし、違うモノの本質も調べる。

頭での理解はする。

 

ただ、そこから自分を寄せることは一切しない、していない、と思う。

 

【エンパシー】という言葉を知り、そのパワーを知り、私はどこまでその力を身につけられているのかを考えてみた。

【シンパシー】に比べれば非常にとっつきやすいし、理解できるし、有用で、おそらく私にも育てることができそうな能力である。

 

ただ、私はパーソナルスペースが人より広いゆえに、人のパーソナルスペースも広く見積もり、そもそも他人とそれほど近くなることがない。

他人に関して聞きたいことも知りたいこともそんなにない。

言ってしまうと、他人に対して興味がない。

ひいては物事に対しても。

 

いや、待てよ。

寛容以前に、私に必要なものは、人やものに対する'関心’なのではないだろうか!!!

 

特に人に対する’関心’のなさは、ここ最近甚だしい。

ただ、人に対する関心なんてあったところで邪魔な気がしませんか・・・?

 

人に対する関心は、恥ずかしながら私には嫉妬や劣等感、優越感を伴う場合が多く、私はこれらの感情に対していいイメージがない。

むしろ自己嫌悪の原因になる負の材料でしかない。

私は誰かを羨ましく思いたくない。

妬みたくない。

誰かより劣ってるとも、勝ってるとも思いたくない。

これらの感情は、自分自身をひどく疲弊されるだけ、まさに百害あって一利なし。

 

などと言ってる時点で、自分と異なるものに対する寛容を語るなんて、そんな次元に達してなかったことに気づいた。

 

>違う人の意見も聞くし、違うモノの本質も調べる。

>頭での理解はする。

などとついさっきキーボードを叩いたばかりにも関わらず、これも非常に限定的なエリアや場合のみだったことに気づいてしまった。

 

自分の嫉妬心や劣等感、自分が誰かと比べて優劣感を持ってしまう罪悪感をそのまま受け入れられるようになるのは、あとどのくらいの年齢が必要だろうか。