言語化されなかった想いはなかったことになるか
人は多かれ少なかれ想いや感情を持つ生き物だ。
ただその表出の仕方は人による。
素直にそれを表現する人もいれば、自分のなかで消化する人もいる。
この違いは、持って生まれた性格、によるものなのだろうか。
もともと私は全て表出したいし、表出しようとしていた。
自分のことを周りにわかってほしいと強く思うタイプだったんだと思う。
特に10代の頃はその想いが顕著だったし、周りもその傾向があったように感じる。
ティーン特有の、自分探しなるものと相まって、たぶんほとんどの人にとってそういう期間なんだと思う。
20代後半になり、子どもも持つと、物理的に「わかってほしい」ことを整理して言語化して伝える時間が惜しくなる。
ただでさえ、子育て、仕事で時間がなく、また子育ては自分のスケジュール通りに進んでくれない。
頭の中のからまりがやっとほぐれそうになって、もうそこまで想いが正確な言葉を見つけそうになって、というところで子どもの泣き声に生活に引き戻され、掴みかけてた言葉はもう手が届かないところに離れてしまっている。
それをもう一度掴むには、一度目以上の精神力が必要だ。
そこでもう想いや感情の言語化を諦めてしまうのだ。
言葉にしようと思っていた、きちんと整理して消化して、今後の人生に役立てようと思っていた自分の体験からくる感情は、もやもやしたまま自分の四肢にじんわりと染み込んで、だんだん薄まっていく。
そのような体験が次々に重なって、自分の体はもやもやした薄い液体が混ざって、自分でもそれを分化も消化もできず、自分の体が何でできているのか、構成成分を見つけることができない。
この言語化さえなかった思いや感情は、果たしてどうなるのか。
時間の経過とともにある程度薄まって、やがて風化して、空気中に蒸発するように消えてなくなるのだろうか。
私はこの10年ほど、極めて多くの想いや感情をこのように扱って、なかったことのようにしてきてしまった気がする。
というと、とても後悔しているように聞こえるかも知れないが、子育て中のライフハックなのかもしれないとも思う。
子育て中はあまりにも日々が目まぐるしくて、自分の思うようにならないことも多すぎて、まともに分析し始めたら、それこそ自己嫌悪と後悔で再起不能になるようなことばかりだ。
自分がきちんと愛情をかけられているのか、生活をまともに動かせているのか、どこか手を抜いているところはないか、真面目にチェックしたら自分のダメさに消えてしまいたくなるだろう。
曖昧にして忘れなければ、子育てなんてやってけない、と言ったら語弊があるだろうか。
ただ、結局、全てを忘れているかと言ったらそうでもないし、今になっても湧き出てくる消化できなかった想いや感情が、ふとしたときに感覚を伴って自分に襲ってくる瞬間がある。
おそらく特に強いインパクトを伴うものは消えてもないし、まだ指の先のような自分の末端でくすぶっている。
私はきっとそんなことを思ってこのブログを始めた。
感情を整理して表出することには意味があると思っている。
もちろん聞いているほうにでなく、自分にとって。
ただまだ日々に忙殺されている自分がいて、感情の整理はおざなりになっているなぁと感じる。
記事の間隔の空き方から見ても明らかなのだが・・・。
だから、これは、まだ言語化してなかった想いのひとつの記録。